Señor Kei "ANTIGUA REPORT"  (No.12)
( 渓さんの「アンティグア・レポート」)



注: 文中の斜体字は今回の掲載にあたって注釈などを追加したものです。

***** 第 十二 回 *****

ホットな話題、寅さんさんのいたアンティグア雑感

11 de Enero 1999

 紺碧の空と明るい日差しの日々がこのところずっと続いています。もう二ヶ月以上雨が降っていません。日中は半袖で過ごせるのですが朝晩は気温が下がり17度から14度位になる日もありますのでセーターやジャンパーは手放せません。しかしここの住人やグリンゴ(アメリカ人:本来は外国人を意味するが、欧米人を指すことが多い)達は相変わらずまちまちの服装をしています。片や皮ジャン片やタンクトップで、気温に敏感な我々日本人には理解出来ません。しかし実に快い天候でグアテマラ人に向かって「この爽やかな空気といい、丁度日本の秋みたい」と思わず言ってしまいましたが彼はキョトンとしていました。ここには秋が有りませんし、年間で一番気温が低い時期とはいえ、雨の降らない今の乾季が夏なのです。乾季と雨季だけで四季が無いことが二年近く住んでやっと実感出来ました。服装と言えば日本人の学生はそれぞれ個性的な格好をしていますが、街で見かけるグリンゴ達はユニホームのように全員似たような服装です。上はランニングかTシャツ・タンクトップ、下は男は殆どが半ズボン、女性はここで調達した薄地の布切れを巻いただけの長い巻きスカー卜。全員と言っていいほどヘラクレスが履いた様なサンダルでナップザックを背負って歩いています。アメリカの大学のキャンパスで見かける若々しい個性的な服装はかっこ良くないと思っているのでしょうか。それにしても年配者まで同じで、その野暮ったさ加減に呆れる程です。
 こうして見て来たここでの私の生活も間もなく終りを迎えます。1月21日にここを発ち、メキシコシティで一泊して23日に帰国の予定です。当初からアンティグアでのスペイン語学習を二年くらいの積もりでおりましたので計画通りということになります。学校での勉強は大体20ヶ月弱だったと思います。JTB時代、中国で会ったガイドさんに「貴方は日本語を何処でどのくらい勉強しましたか?」と尋ねたところ、「短大で二年間勉強しました。」という返事でした。あの語学の天才といわれる中国人でさえこの程度のたどたどしい会話能力かと思いました。それがここでの期間設定の端緒になったとも言えます。今はこれで教養学部が終ったという感じで出来ればこの秋からスペインで、学部の3、4年目の勉強が出来ればと念願しております。今までの学習の成果は残念ながら不満足なものですが、人様に対しては結果よりその過程が肝心なのですと訳の判らないことを言って弁解しております。それでも一応難解な文法については学習が終りましたし、生活に不自由のない程度の会話はこなせるようになりましたし、作文もスペイン語で考えて書くようにはなりましたので、まあ身分相応かなと思っております。この最後の一週間の学習を心置きなく週ごし、それから旅立ちの準備に入る予定です。
 話は少し前のことに戻りますが、私は普段36度2分の比較的低い平熱なのですが11月13日の夜半、突然39度2分に熱が上がりベットから起き上がれなくなりました。仕方なく下に転げ落ちそれからやっと起き上がってトイレに行ったような次第でした。日本から持参した抗生物質入りの風邪薬を飲むと37度5分位には下がるのですが、又すぐ39度台に戻ってしまうのです。そんな日が4日続きましたので近くの医者で手当を受けました。風邪という診断でしたが熱が高かったのでペニシリンの注射を3日間打たれました。翌日から効果が現れ3日目には平熱に戻りました。しかし記憶に無いような高熱が続いたせいかすっかり体力を消耗し、結局合計三週間学校をお休みしてしまいました。11月23日から平常の生活に戻ったのですが今度は小水にほんの少してすが血が混じっていることが三回程あり、又膀胱内に異物感や頻尿が続いた後、12月10日にまた小水に血が見られたためグアテマラ市内の病院に検査入院しました。その結果高熱の後の膀胱炎とのことで点滴と服薬で治りました。一時は最悪の事も考え少し早めの帰国さえ予定しましたが幸いに事なきを得、年末から年始にかけての隣国エルサルバドルヘの旅行もすることが出来ました。今はすっかり体調も回復しましたので元気で帰国出来そうです。
 さて長い間お目を患わしたアンティグアレポルタも今回をもちまして終了させていただきます。最終回のテーマとして「ホットな話題」「寅さんのいたアンティグア雑感」を取り上げてみたいと思います。


<<ホットな話題>>

 以前からお伝えしていますがラティーノ達の音量に関する感覚は異常と思えるものが有ります。若者が乗っている乗用車は宣伝カーのように100m先からでも聞こえるような音量で音楽をガンガン鳴らして走っていることが間々ありますし、お祭り好きなここの人は隣近所にお構い無しに朝早くから(例えば朝5時)夜遅くまで(夜12時過ぎまで)爆竹を鳴らし、音楽をかけてお祝いをします。長い間の在留ですっかり慣れてしまったものの究極のNochebuena(クリスマスイブ)と大晦日には改めて驚かされました。アンティグアの中央公園では夜12時を期して戦争状態に入ります。耳を劈く様な、鼓膜が破ける様な爆竹の弾ける音の連続が暫くの間続きます。街中の道路という道路も同じく爆竹の騒音で満たされます。中国人が持ち込んだ爆竹がここの人達の感性とマッチして習慣になったものと思われます。大晦日はエルサルバドルの首都サンサルバドルのダウンタウンから少し離れた閑静な地区のホテルの9階の部屋で、私だけがワインでダウンしてしまい夢うつつで爆竹音を聞くとも無しに聞いていました。これが下町のホテルの2、3階でしたら大変だったと思いました。
 強烈な感性は味覚にも感じられます。調理の香辛料の使用とは別に、食事に少し加える香辛料にチレがあります。小匙の先にほんの2、3滴程度をスープに加えたりしますが、それでもともすると刺激で咳き込んでしまう程です。ですから女性はあまり好みません。主におじさん達が愛用します。チレは親指位の大きさの唐辛子の様なものです。オリーブオイルに水を同量加え塩を若干入れたものに玉葱の刻んだものとチレの刻んだものを入れて攪拌(かくはん)し瓶に入れて保存します。去年マルセロ先生からいただき、自分で作ってみました。作り終って2~30分経ってからトイレに行ったのですが暫くすると大切なところが猛然と熱くなりました。その熱さは一通りのものではないのです。思わずズボンもパンツも脱いでそばに有った教会のお祈りの本で扇ぎました(大きさと言い厚みと言い丁度良かったとはいえ罰当たりのことをしたものです)。10分程してもなかなか火照りが収まらず結局バスルームの水で冷やしやっと落ち着きました。チンカ(鎮火)した思いでした。学生の時、運動部の人達がよくなるインキンにサルチルサンをつけた時のことを思い出しました(あの時より1.5倍は強烈)。刻んだ後は勿論、その後も石鹸で何回も洗ったにも拘らず翌朝包丁を持った右手は何ともないのに、チレを押さえた左手の指先はポカポカと火照っており、改めてその威力に感服しました。マルセロ先生にそのことを話すと「言うのを忘れたけど手を使わずフォークで押さえるんですよ」と言われました。―――嫌だなぁーそんな大切な事を忘れるなんて…


<<寅さんのいたアンティグア雑感>>

 お正月映画に「寅さんシリーズ」が長い間一世を風靡しました。最初の頃はあんな低俗な映画、と馬鹿にしていましたが、何回か観光バスの中で否応無しに観ているうちにすっかりファンになってしまいました。筋書きは単純で馬鹿馬鹿しいものと言えますが、どの回もコミカルな会話のやりとりがあったのは勿論、その他にも詩があり、哀愁があリ、ロマンスがあり、日本各地の風物が見られ、そしてマドンナが現れ寅さんが失恋して、心優しい叔父さん叔母さんの家で心をイ癒し又気を取り直して自由な天地に出発するというストーリーなのです。こうした事は日本の殆ど全ての、家廷を持っている男性が願い夢見ている不可能な自由なのかも知れません。そんなわけで圧倒的な支持を得てヒットしたのだと思いますが、実際には殆ど実行不可能な事でお正月の間にスクリーンの中で皆夢を見ているのでしょう。夫婦どちらにも年老いた親が無く、扶養している子供も無く、働く必要もなく、その他の義務も無く、夫婦共に健康面の心配が無くその他の面での懸案事項も無く、等々の六無斉になってから得られることで、その上配偶者の了解があって初めて得られる自由なのです。私の場合全ての条件が満たされましたので、幸いにしてこの寅さんとしての自由を得ることが出来、ここアンティグアでの生活が始まりました。古都アンティグアは世界文化遺産に指定されているだけあって、美しい自然の背景と共にある哀愁を感じる廃虚や石量のある街並みは、すっかり私の心を捕えてしまいました。
 また単にここでの自然を楽しみながらの生活だけではなく、スペイン語学習という目標を掲げながらの日々でしたので有意義に過ごせたという満足感があります。二年間に多くの人達との出会いがあり、楽しい思い出だけが残りました。そんな中、沢山のマドンナが現れ、そして去って行きました。本物の寅さんのような失恋する過程には至りませんでしたが、それでも私の周りには多くのセニョリータ達が居て心楽しく過ごせました。「二番目でいいからケイさんのAmante(愛人)にして!」と冗談でも言ってくれた女性がいたり、スペインからの手紙の最後に「セニョールケイの100番目のAmanteより」と書いてくれたセニョリータもいたりして"柴又の寅さん"よりは少し幸せだったかもと思ったりしています。
 スペイン語学校アタバルには今まで私の様な年配の人が短期間一人か二人居たことはありますが、去年の11月から50代、60代の人達が4人長期滞在の予定で勉強を始めました。そこで「セイネンクラブ(成年?青年?)」と称して仲良くお付き合いをしています。私の長い生活経験や学習経過をここを去る前に総てお伝えししたいと思っています。私もその一人ですが、これからは年金生活者であるの年配者が外国で勉強をする機会が段々増えてくるのではないでしょうか。体調が良くなりましたので年末年始のエルサルバドルヘの旅行はセイネンクラブの皆さんをご案内して楽しく過ごしました。今は何時も私のそばにセイネンクラブの人がいるので若い女性達は遠慮がちですが、長い問お付き合いのあるマドンナの広美さん、美奈子さんとは今も親しくしています。広美さんは現在はグアテマラの日本大使館動務。美奈子さんは日本料理マサラ、私の住んでいるアパートの経営者でなかなかの美人です。
 もう10日程でここグアテマラ共和国での生活を終え帰国することになりますが、ここでの日々と、沢山の人達、美しい自然と人情は私の一生忘れ得ぬ思い出として脳裏に焼き付いています。アタバル学校のペトラ校長と片桐真さん、前述の広美さんと松本君達の結婚の証人(法的仲人)を務めたことは私の誇らしい思い出として矢張り消し去ることの出来ないものの一つです。
 アンティグアの寅さんは居なくなりますが、最後にグアテマラ共和国が平和で豊かになり、アンティグア市が今のままの美しさを保ち、スぺイン語学校アタバルが益々栄え、セイネンクラブを始め皆さんの学習の成功とご健康を祈念してこのレポートを終了させていただきます。

 皆様、長い問お付き合い戴き有り難うございました。

発信人 アンティグアの寅さんこと 小泉 渓